ベッドで元彼を思い浮かべて泣いてしまった……
2016年11月9日水曜日 元彼
相手はアンディというイギリス人の男の子だった。欧米から日本に駐在にくる外資系企業の社員が皆そうであるように、南青山というとんでもない場所に彼は住んでいて、そのとんでもなく高級なマンションの一室に私たちはいた。そうして、彼との行為中に泣くということを私は初めて経験した。
彼の部屋に泊まってもいいと思ったのは単純に、彼が元彼と同じロンドン大学の出身だったからだ。商社マンの息子だった元彼は世界中のあちこちの国に住んだけど、大学は両親の赴任先に近いロンドンを選んだ。私にとってロンドンという言葉は当時、特別の響きを持っていた。元彼のそばにいられないならせめて、元彼のいたロンドンを感じさせる人のそばにいたかった。
オーバカナールで彼がオーダーした子羊のグリルと、前菜のエスカルゴがおいしかった。ウェイターはフランス人で英語が話せず、アンディはフランス語が話せず、仕方なく二人の共通言語である日本語でオーダーが行われた。白人の二人がぎこちない日本語で交わす会話がおかしてく、横で私はクスクス笑っていた。
アンディのシャツのカフスボタンは、マザーグースの歌にちなんだ雄牛が月をまわる図柄で、それがとても可愛かった。
そんな理由もあって、それなりに楽しい夜だった。私とアンディは食事のあと歩いて彼の部屋に帰った。当然のようにベッドルームに行くことになった。
アンディとは友達になって何回目くらいのデートだっただろう。
とくに好きというわけじゃなくて、男性として惹かれたわけでもなかった。ロンドンという、元彼との共通項目があって、ロンドンを感じていられることがうれしかったから。子羊がおいしかったから、カフスボタンが可愛かったから。そんな恋愛感覚はまさに恋愛体質であることを物語るようだった……
そうやってほかの誰かに恋することができればいいのに、といつも思っていた。次の恋を早くして早く元彼を忘れたかった(10年かかるとはまさか、想像もしていなかった)。
部屋について、お酒を飲み直して、たわいない会話に笑い声をあげて、キスをして。
まるで本当の恋の始まりのように傍目には見える夜だった。
けれどベッドに入って少ししたら何もかも色あせてしまった。私が会いたいのは元彼だった。ほかの男といれば寂しさが薄れる、と思えるときと、ほかの男といるからこそ元彼への思いがつのって逆につらくなる、と思うときがあった。後者のほうが圧倒的に多くて、このときもそうであることに私は突然気がついた。
全然、好きでもなく、愛してもいなくて、今後も気持ちが傾くとも思えない相手と、素肌で抱き合っていた。恋いこがれている人がほかにいるのに。本当は彼のことしか、彼のこと以外一切何も、考えられないのに。違う人に平気で抱かれている。そのことがたとえようもなく空しく、さみしいことに感じられた。
もっと飲めば良かったと思った。わけがわからなくなるくらいに。
あるいは全然飲まなければよかった。
突然何もかもがどうでもよくなった。とても捨て鉢な気分になり、後悔と自己嫌悪が胸にわきあがってきて、どうしようもない感情は高まって波打って、ついに涙になった。
アンディは慌てた。自分の勘違いで、同意していたと思っていた日本人の女の子が、本当は嫌々こういうことをしていて急に泣き出したのかと思ったのだ。
大丈夫? と、彼は何度も私に聞いた。大丈夫、いやじゃない、続けていいよと私は答えた。彼に悪いので泣くのはやめて、でも冷え冷えとした気持ちのまま、ただ終わるのを待った。早く自分のベッドに帰って思う存分泣いて、泣き疲れたら一人で眠りたかった。
アンディには好きな女の子がいて、その子とうまくいかなくて落ち込んでいた。アンディによると彼女は一言も英語がしゃべれないそうだが、「そんなこと問題じゃない、彼女は信じられないくらい美しいから」と言う。
しかしアンディと私の共通の友人、彼は日本人だが、彼に言わせるとその子は「コケシそっくりの顔をしている」らしい。日本人のセンスで見るとお世辞にも美人とはいえないそうだ。
あとになって私は実際に海外で生活するようになり、日本の国内と海外では美人の基準が非常に異なっていることを肌身に感じて知るようになるのだが、このころはただアンディの感覚が変なのだろうと思っていた。
アンディは私を「カナは美人じゃないけどいい子だから好きだ」と言ったことがあった。私は腰を抜かすほど驚いて耳を疑った。悪いけど男からそんな台詞を聞いたのは生まれて初めてだと言ってやった。今だったら笑ってそうだろうなと思うのだろうけど。コケシの顔は欧米では東洋の美だ。私の顔はアジア圏で受けるタイプらしくて、アメリカでも珍しく男の子に声をかけられるときはたいていが日系人だとか台湾系アメリカ人とかなのだった。
とにかくアンディも私同様、私に少しも恋愛感情は持っていなかった。恋愛対象ではないけど性格のいい女友達と、雰囲気に流されるままベッドに行ってしまっただけのことだ。でも男性であるアンディにとってそれは思いがけなくいい思いをした一晩で、私にとっては自己嫌悪でさらに自尊心が低下して、元彼を思ってただ苦しくなるだけの夜だった。
朝が来て、何もかもが白々とさらけ出される街を、駅に向かって私は歩いた。週末が始まっていて、ストッキングにスーツ、とれかけたメイクで歩く自分が朝の光の中で周囲から浮いているようで恥ずかしかった。なんとも自暴自棄な気分だった。
アンディとはまた会うだろう、何ごともなかったように、友達として。うまくいかない彼女との相談にのったりするだろう。そのことについてはまったく心が痛まないし寂しいとも思わない。
けれど周囲が穏やかな明るい日差しにつつまれた週末の景色であるために余計、私の空しさと孤独感はつのった。アンディを別に好きではなくても、簡単に手に入った気のいい女友達として扱われたことに傷ついた。アンディが私をぞんざいに扱ったわけではなくても、大切な女性として愛されたわけではない夜は私をひたすら寂しい気持ちにさせた。第一アンディは私を美しいとさえ思っていない。
元彼に愛されないのも当然のように思えた。自分を大切にできずに好きでもない人の部屋に泊まるような私を、慈しんで抱きしめてくれる男性なんていなくて当たり前だと考えた。
早朝に開くベーカリーの前に、普段着だけど清潔な感じに装った可愛い女の人がいた。店の前につまれたバゲットを眺めながら、なんとなく楽しそうに微笑みを浮かべていた。
なぜだかその人を自分から遠く、別の世界にいる人のように感じて通り過ぎようとするとき、中から男性が出てきて彼女と目をあわせにっこりと笑った。
お待たせー、と男の人の穏やかな声が聞こえて、彼女が笑い声があとに続き、二人は自然に手をとりあって、私と逆の方へ歩いていった。
気づくと二人の後ろ姿をぼんやりと眺めて立っていた。
世界中で、自分だけが独りぼっちのような気がした。私を、私だからという理由で、ただそれだけで大事にして愛してくれる人なんて、どこにもいないような気がした。これからも出会えないような気がした。
幸福は自分と陸続きではない、何か、深い海かなにかを努力して越えないとたどり着けないようなもののように思えた。
ゆっくりと、ゆっくりと体の向きを変えて駅に向かう。こんなに孤独なのに、私を誰も大事に思っていないのに、世界はさわやかな朝を迎えて恋人たちは週末を迎えようとしている、そのことが(自分勝手とわかっているけど)どうしようもなく理不尽でならなかった。
寂しかった。一歩、一歩が苦しくて長かった。元彼に会いたい、会いたいと苦しい気持ちの中でただそれだけを思った。
そうやって少しずつ駅に向かうのだけど、道のりはとても長くて、まるで永遠にたどり着かないような気さえするのだった。
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