リッチなホテルで彼氏と過ごすとき
車にお財布置いてきちゃったから、先に部屋に入っていて。そう言って彼氏がホテルの部屋の鍵を手渡したとき、何かちょっと変だな、とは思った。普段はそんなときもうちょっと慌てるし、ほんの少し離れるだけでも寂しがって私をいったんギュッと抱きしめるのがいつもの彼氏なのに、妙に冷静であっさりしていたから。
でもそれは久しぶりの再会だったし、空港から長い時間かけてやっと二人きりになれる部屋の前まで来ていたから、私は気持ちが浮き立っていて大して気にせず鍵を受け取り、一人で部屋に入った。
先にチェックインしていた彼氏の荷物がベッドの脇に置いてある。
窓から新宿の夜景と、もしお天気が良ければ翌朝は富士山が見える部屋をとってもらっていた。
そんないいホテルをとるの、もっと安いところでいいよ・・・と彼氏は戸惑っていたんだけど、私はいつもホテルについては妥協したくないのだ。多少値が張るぐらいが手応えがあっていい。
カーテンを開け放って希望通りの景色になっているかどうかを確認する・・・、よし、満足、と嬉しくてにっこりして、それから振り向いて初めて、窓際のテーブルの上に何かがあるのに気がついた。
花束は脇を通ったときにちょっと目に入っていた。ホテルからのウェルカム・ブーケかと思っていたのだけど、こうして日があたってみるとそれにしては小ぶりで可愛らしすぎることに気づく。ホテルからの花束と言えば香りの濃いゴージャス系が普通だから・・・、それにブーケのとなりにはプレゼント風の小さな箱が置いてある。水色の箱に白いリボン。
水色に白いリボン?そう、ティファニーからの贈り物をホテルが私のために用意しておくというのは変だ。
そのときやっと何もかも合点がいって思わず微笑みがこぼれてしまった。もう、彼氏くん!と小さくつぶやいてしまう。
ブーケの下にカードがある。愛する美樹ちゃんへ、と手書きの彼氏くんの字。シンブルだけどまっすぐで一生懸命な愛の言葉。ティファニーの白いリボンをほどき、水色の箱を開けると、以前に二人で「これ可愛いね」と話していたディアドロップのピアス・・・
そこにちょうど彼氏くん到着。まさに彼の計算通りにはめられてしまった。
ドアをあけると彼氏は期待でいっぱいの表情をしているくせに、さりげなさを装って「どう、部屋気に入った?」とか聞いている。私はそんなのは無視して彼氏に抱きつき「ありがとう・・・」と耳元で言う。あまりに嬉しくて胸が痛くなって小声しか出ないのだ。
そのあと花束を持って写真を撮ってもらった。私が花束を抱いて、彼氏が私の肩を抱いて、片手でカメラをかざして上手に二人の写真を撮ってくれる。
撮れた写真を液晶画面で確認すると、彼氏は「あー!美樹ちゃん可愛い!」と感激して叫ぶ。でもそれはいつものことで、特別可愛くとれた写真というわけではないことを私は知っているので「ありがと・・・」と言っておくだけであまり写真には期待しない。
彼氏はいつだって私のすべてに大げさに反応して感激してくれるのだ。ケーキをほおばれば「可愛い!美樹ちゃんの食べちゃうぞ!っていう表情がめちゃくちゃ可愛い」なんて言うし、キックボクシングのクラスに間に合うように大急ぎでご飯を食べたらお腹が痛くなって結局行けなかった・・・という話をするとまた「可愛いなあもう、なんでそんな可愛いことするの、美樹ちゃんは!」と絶賛される・・・
彼氏に言わせると「いつもしっかりもののお姉さんの美樹ちゃんが、そうやってときどき失敗するのがすごく可愛い、守ってあげなきゃと思うんだ」そうだが、自分では私は「いつも失敗している」だけで全然しっかりしてなんかいない。だからいつもの失敗を人から「可愛い」と思ってもらえることがなんだか不思議。ただ私が普段の私でいるだけで「ああー!」と叫ぶほど感激する人の存在が不思議。
ちょうど空になっていたペリエのボトルに花を移し替えてリボンを結びつけていたら、彼氏はそんなことも「うわあ、上手、さすが美樹ちゃんだね」といちいち褒めてくれる。私はどう反応していいかわからなくてただ彼氏を見る。空港で再会したときから私に向けられて少しも離れることない、彼氏の熱っぽい目を。
私が何か言う前に彼氏が腰掛けていたベッドから立ち上がって私を引き寄せる。それまで口にしていた言葉の優しさと違ってそれは思いがけず強い力なので、私は簡単にベッドの上に押したおされてしまう。
どうしたら私と彼氏の体が一番ぴったり寄りそうか、もう二人ともよく知っている。恋愛体質な二人だ……。
それがたとえ1ヶ月ぶりでも瞬時にそのことを思い出して、私は腕を彼氏の背中にのばし、腰をぴんとのばして体を反転させる、右手を下にして。彼氏はいつも左手を下にして私に向かい合う、そうして自由になった右手で私の髪をなでたり、キスするために上を向かせたりできるように。シャワーを浴びさせて、といつもそんなタイミングになってから私は言うんだけど(それより前だといかにもこれから・・・って準備してるみたいで変だから)、彼氏は必ずその言葉にかぶせるようにして「嫌だ」ときっぱり否定する。そして私が振りほどけないように腕に力をいれて、言葉を封じるようにキスを始める。
このことをよく覚えておこう、と私は思う。
私の仕草ひとつ、表情ひとつに反応して目を輝かせる誰かの存在に、いつか慣れてしまわないように。
私が笑顔になったときにその笑顔を可愛いと言ってくれる人がいなくても、生きていくことはできる。
離れないで、と力を込めて抱きしめる人がいなくても、私は一人で生きていくだろう。
けれどそれは、「毎日毎日曇り空で太陽が見えなくても人は死ぬわけじゃない」ということに似ている。
私にとって、私の何かに反応してくれる人、私をこれほどまで強く求める人が存在することが、どれほど大切か。毎朝私を目覚めさせる明るい朝日のように。見上げるだけで元気な気持ちになれる晴れた青空のように。
いつかわからなくなってしまったときに大切なものを失わないですむように、この気持ちをよく覚えておこう、と思う。
私にとってこのことが太陽と同じくらい大切で毎日必要なものだったから、私は結婚をやめて彼氏を選んだ。
ついばむようにして一瞬、彼氏の唇が離れそうになった隙に、切り込むように顔を傾けてさらに深いキスをしかけていく、これをすると彼氏はもう後戻りできない状態に移行してしまう。そういうキスをされたのは美樹ちゃんが初めてだ、と彼氏は言った。それが本当に愛し合ってするキスという感じがして嬉しかったのだそうだ。
新しい恋愛のいいところは、それまでにたどってきたいろいろな道筋や寄り道、陥ってしまった間違いまで、何もかも「やっぱりあれで良かったんだ」と肯定できてしまうことだ。
この上なく私を傷つけた過去の恋愛さえ、あるいはしばらくの間後悔してやり直したいと願い続けた大きな選択も、すべてここに至るまでの道しるべだったと思えてしまうこと。
年下の彼氏くんより経験が多いから私が与えられるものだってある、などと考えることもできる。たとえば、彼氏を後戻りできなくするキス。23歳の彼氏のもと彼女ではできなかった「本当に愛し合ってる感じがする」仕方の。
やっぱりシャワーを浴びにいくことはできなくて、あきらめて服を脱ぐ、待ちきれずに見つめている人が目の前にいる、大好きな人と素肌で触れて抱き合う心地よさを体いっぱいに感じる、本当に本当に幸せな時間・・・
私に生まれてよかったわ、あなたに生まれてよかったね、という歌の歌詞があって、それはずっとずっと昔、私が中学生のころに好きだった歌なのに、唐突に頭に浮かんでメロディが流れ出す。・・・陳腐な歌詞だと思ったのに、そんな言葉がピッタリだ、と思う瞬間が、それから20年も経ってから訪れるなんて。
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