仕事と結婚…負け犬
数年前に、同じ夢を何度も繰り返して見たことがあった。毎回少しずつ設定は違うものの、パターンとしてはいつも何かが間に合わなくて、とてもあせって必死でなんとかしようとするのに、結局間に合わせることができない、という、とても苦しい夢だった。
とくに印象的だった夢を例としてあげる。
私は、出番を数分後に控えた女優で、舞台のそでにいる。もうすぐ出番だというのに、私はまだ台詞を覚えていない。パニックに襲われながら、周囲にいる人たちに台詞を書いた紙を借りようとするのに、ある人は持っていなくて、ある人は私の声が聞こえないようで、誰も私を助けてくれない。どうしよう、どうしよう、私、どうしてこの瞬間まで台詞を覚えずにきてしまったんだろう?でも私の出番が来てしまう。
・・・私、舞台になんてもちろん出たこともなければ、芝居を見たことすらないし、女優になりたいと思ったこともまったくないのに、なぜかこういう設定。こういう個々の設定は突拍子もないのだ。
でも、「どうしよう、もう出番だ、まだ何も準備できていない」・・・このあせってパニックになる感覚は、非常にリアルなものだ。目が覚めてもなおその気持ちだけが残る。夢を見る前からその気持ちを常に抱えて暮らしていたのに、夢でやっと気が付いたような感じ。
感覚はリアルなのに、自分の生活を振り返ってみても、自分がいったい何にあせっているのかがわからない。
仕事を始めたばかりだったけど順調だったし、自分の極めたい専門分野で学位をとったあとで得た希望通りの仕事で嬉しかった。アメリカでの生活にも馴染んできて、金銭的な余裕も出てきて毎日を楽しんでいた。思い当たるストレスもなかった。
しかし何かが間に合わなくなっていて強烈にあせっているという感覚は、確かに私自身のものだと実感できるのだ。
舞台女優の夢をもう少し分析する。
出番直前に、私は、舞台で使用するはずのきれいな靴を忘れていることにきづく。
足もとを見下ろすと、私は運動靴のようなものを履いている。ぼろぼろで、色は茶色で、色気もなにもない地味なデザインの靴だ。
でも舞台で使う靴は、ヒールのついた華奢なミュールで、ピンク色のスパンコールがたくさんついた、キラキラしていてとても可愛いものだった。
その靴を、舞台のある建物から道路を隔てた場所に置いて来てしまったことを、私は突然思い出す。
慌てて建物を走り出て、道路を渡る。靴を見つける。靴を手にして舞台に走って戻ろうとする。
しかし、夢の中で走るときにいつもそうなるように、全身の力をこめて前に出ようとするのに、私は足をもちあげることができない。全力疾走したいのに、指一本動かすのも時間がかかっていらいらする。前に進んでいるようで全然進んでいない。
間に合わない、間に合わない・・・はやく、はやく・・・ああ、もう手遅れなのかもしれない。
そんな風にいらいらが限界に達したときに、耐えられなくなって私は目を覚ます。
眉間にしわを寄せたまま、体はまだ前に走ろうとしてこわばっている。
力を抜いてため息をつきながら、ああ、また間に合わない夢、と考える。
夢に出て来た靴を私は実際に持っている。スパンコールのついた華奢なミュール。それはアメリカのデパートで見つけた、珍しいほど可愛いデザインで、とくにそれを履いて出かける予定はなかったのに、どうしても欲しくて買ってしまった一足だった。
日本に置いてきた世界を象徴するようなその靴は、実際にはアメリカで履くことはなく、玄関脇のコート用クローゼットにしまったままになっていた。
夢で履いていた運動靴のほうも実在する。当時の仕事で、製作所の現場に出入りすることの多かった私は、東京で働いていた頃とちがって、パンプスとは無縁になり、運動靴で仕事に向かうことが多かった。
業務内容自体は、ずっとやりたかったことだから・・・キャリアの方向性としても、これは重要なステップとなるはずだから・・・仕事に不満はないはずだった。
でも、毎日色気のない運動靴を履いて、汚れてもかまわない服装で仕事に出かける自分への違和感が、少しずつ、少しずつ累積していたのかもしれない。
夢はさまざまに形を変えて、私に何かメッセージを送ろうとしていたようだった。
また別のときは、私はテレビかなにかのインタビューを受けることになっていて、カメラが回りはじめてから、自分が素顔であることにきづく。
待って、待って、せめて口紅を塗らせて。そう言って、お化粧ポーチのなかの、お気に入りの色の口紅を探そうとする。
いつものあの口紅なのに、ない、見つからない。
だめだ、もうカメラに写っている。私はそれでも必至で別の口紅を見つけて、手鏡を見ながら唇に色をのせる。リップペンシルを探す時間がなくて、直に塗ると、ラインがうまくとれない。色がちゃんとのらないのは、唇が少し荒れているせいだ。手鏡の中の自分にがっかりする・・・しばらく鏡を見ないうちに、頬はくすんでいるし、全体に乾燥しているし・・・
はずかしい、これでテレビに写るなんて。どうして準備しておかなかったんだろう。
でももう手遅れだ、間に合わない、間に合わない・・・
どんな夢でも、間に合わないのは、時間切れで私の準備が間に合わない、お化粧や服や靴の準備を、しておくべきときにしていない、という点が共通していた。
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夢がなにを象徴しているのかわからないままに、時間が過ぎて行った。私はアメリカの小さな街で、キャリアを優先し、遠距離恋愛を3年以上続けながら、30代を迎えた。
やがて、「間に合わない夢」さえ次第に見ないようになり、その後しばらくしてから、私は季節性の鬱症状に悩まされるようになった。
目にうつるものすべてが灰色のベールを通したようになる鬱症状の中で、あるとき、鏡を見て絶望的な気持ちになったことがあった。
老けた、とはっきり実感した瞬間があったのだ。もう元に戻せないと思った。私の、人生で一番きれいな時期は終わったんだ、と寂しい気持ちで考えた。まだ結婚もしていないのに。
結婚もしていない、子供もいない、そんな、ほんの数カ月前までは気にもしていなかった事実が、突然私を打ちのめした。
〝Loser〟という言葉が浮かんだ。日本語にするとしたら、まさに「負け犬」。
人生の敗者。
ちょうどその頃、同い年の友人にベビーラッシュがあったりして、私は自分をとんでもなく時間を浪費して何もかもが間に合わなかった、失敗作の人間のように感じた。
間に合わなかった・・・
「早く、早く、間に合わなくなるよ。」夢がそう告げていたのかと気付いたのはその頃のことだ。
キャリア確立のために、重要な時期だったことは確かだ。けれど、30歳を超えるという数年感は、恋愛と結婚に関しても同じくらい、決定的な時期でもあったのではないか。
意識して気付いてはいなくても、体が私に、「早くして、運動靴を脱いで、あのきれいなミュールを履いて、恋をして!」と必死でメッセージを送っていたのでは。
でも、もうその夢も見なくなった今、私は結局「間に合わなかった」・・・
そう思い付いて私は限りなく落ち込んだ。底なし沼に落ちたかのように、何か月も、その落ち込みから這い出すことができなかった。
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数カ月後、落ち込みの原因となったはずの「結婚」がついに確定して現実のものになった。そのさらに半年後、私は自らその結婚を自分から放棄してしまうことになる。
でも、あの季節性の鬱症状に苦しんでいた頃、私が本当に求めていたのが当時の恋人との結婚ではなかったことが、今になってよくわかる。
そして「間に合わない」夢が送っていたメッセージも。
何を見ても聴いても心に響かなくなってしまう鬱症状の日々、ふと雲間から光が差したように、音楽が心に届く瞬間があった。
美しいメロディで心が動く、そんな単純な感動の楽しみを、私は久しく忘れていた・・・つかのまの太陽を必死で追うように、私は音楽に全神経を傾けた・・・感じていられる間だけでも、音楽の美しさを楽しんでいたかった。
そのときの音楽が何であったかは覚えていない。音の美しさが、私の心にどんな作用を及ぼしたのかもよくわからない。
でも、凍り付いていたような心が久しぶりに揺り動かされたとき、私は感動のあまり泣き出していた・・・まるで空から降ってきたかのように、思ってもいなかった言葉が浮かんだ・・・「ああ、もう一度、恋がしたい!」。
私には恋人がいた。遠くアメリカ大陸を隔てた、東海岸に。彼が私の恋愛相手だと思っていた。キャリアも恋も順調で幸せなはずなのに、と思っていた。
けれど、私は無性に新しい恋がしたかった、出会って、最初の一歩から、少しずつ関係を育てて行って、不安になったり期待を抱いたり、ときに幻想を楽しんだりしながら・・・東京にいたころのようにたくさんの恋を同時進行させるのも懐かしいし、誰か一人に恋いこがれるのもいい、激しい感情につい動かされて泣いたり笑ったりしてみたかった、もう、そんなことはずっとずっとしていないように思えた。
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あれからまた1年以上が過ぎた。
こうしてあの「間に合わない夢」と、その後の自分を客観的に見てみれば、私が彼氏に強烈に惹かれてどうしてもあきらめることができなかったのも、ごく自然で無理のなかったことに思えてくる。
婚約破棄という選択肢を最終的に選んでしまったことも、やはりどうしようもない自然の流れだったのかもしれない・・・少なくとも今はそう考えることで、後悔を避けてまた1日を過ごそうとしている。
また違った解釈を、「間に合わない夢」にあてはめる日が来るのかもしれないけれど…
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