彼氏が部屋を出て行ったあと…
恋愛体質な私は今の一人の生活を愛しているので、誰かと一緒に暮らさなければいけない、と考えるだけで十分、結婚に対して二の足を踏んでしまう理由になる。シンクの蛇口を、使うたびに乾いた小さなタオルでキュッキュッと磨く。いつでもきらきらと輝いた状態にしておきたいから。ここが輝いていて、鏡の上のバニティランプの光を反射していると、普通のアパートのシンクがぐっと高級感を増して、ちょっとホテルのような感じになるのだ。
私の身の回りのものすべては、それぞれの居場所が決まっている。テレビのリモコンも。小さい透明な石がついたピンも、髪をまとめるふわふわのゴムも、お茶を飲みながら爪の手入れをするためのコルクのコースターも。
寝る前に必ずベッドをきちんと作り直す。しわをのばしてシーツをピン、とさせて、枕をたたいて形をととのえる。ただの飾りで無駄、と思われても、枕は寝るときに使うものと、デコレーション用の小さいものと、並べて置いておく。それらをベッドのわきにおろして並べてから寝る、その順番も場所もきれいに色合いが並ぶように決まっている。
でも、無駄なものをごてごてと飾るのは何よりもきらいだ。 風水でもよく言われることなのだけど、ごちゃごちゃした部屋はそのまま、混乱した精神状態を反映しているそうだ。 私は必要最低限のものしかおかないシンプルな部屋、部屋全体がミニマリズム・アートになったような、かつ女の子らしい可愛い色合いのインテリアをめざしている。
基準: 毎日手にとって使うもの以外は、すべて目に付かない場所にしまうこと。
・・・この基準を使うと、しまわなければいけないものがたくさんあることにきづく。まったく使わないのにただ床の上においてあって、ほこりをかぶっているものが目に付きだす。風水によると、そういうものたちが、エネルギーのフローを邪魔している障害物なのだそう。
風水を信じても信じていなくても、障害物をとりのぞいたあとは気分もすっきり、部屋にいるときの精神状態が全然違うから、試すだけの価値はある。
とにかく、私にはそういう小さなこだわりがたくさんあって、誰にも邪魔してほしくない。
だから男の子はこの部屋に1泊とかしても、翌日はまた、私一人の世界に戻してくれないと不満がたまる。 これじゃ結婚は、なかなかね。そうずっと思っていた。
シャワーを浴びて出てくると、何かが片付いている。
一人暮らしが長い私にとって、そういう現象はまるで奇跡をみるかのようにものめずらしく衝撃的だ。
私が片付けない限り、一切なにも片付かない、そういう生活がずうっと続いていたから。 あるいはその日泊まっている男の子が、よりいっそう散らかしていて片付け物が増える。そういう現象しか経験していなかったので。
「あのシャツどこだっけ」と彼氏に聞かれて、「今朝洗ってまだ乾燥機の中じゃない?」と答える。ああ、乾燥機の中の服を出してたたんでしまわなきゃなー、と考えながら。
バスルームに向かうと、乾燥機にあった服を腕にかかえて彼氏が出てくる。
ベッドの上に一度その服を置いてから、ごく自然なしぐさでベッドに腰掛けて、手早く服をたたみだす。あれ?あれ?と思ううちに服の山が片付いていく。
私はキッチンで立ち働く彼氏とか、上手に家事をしている彼氏を見ているのが大好きだ。 そういうときの彼は伏目がちで、唇を軽く結んで、なんだかわからないけどすごく一生懸命で真剣な表情をしている。ひたむき、とか、いたいけな、という形容がぴったりで・・・頑張ってる男の子を見守るお母さんみたいな心境になってしまう・・・でも私はお母さんじゃなくて年上の彼女。
私のために一生懸命、家事をやってくれる彼氏くんが、同時に私の恋人でもあるっていう事実が、なんとも私を幸せな気分にしてくれる。
カレーのCMで、大昔だけど、捨て犬がどうしても自分のあとをついてきてしまって、「だめだよ」と言いながら帰ってくる男の子、という設定があった。
帰りが遅くなってしまってあたりは夕暮れ。ちょっと心配になったお母さんがドアの外に出てくる。男の子が、涙のにじむ目元をこすりながら、お母さんのほうに向かって歩いてくる。
晩御飯にカレーが待っている、暖かい、お母さんの待つお家。 っていうのがCMのポイントだったんだけど、私はカレーはどうでもよくて、この「一生懸命で優しい男の子」「お母さんの姿が見えて泣いてしまって、走って戻ってくる男の子」にすっかり心を奪われてしまった。
恋愛感情を持ったというのとは違うんだけど(そりゃそうだ、小学校低学年くらいの男の子に・・・)、完全にお母さん側に感情移入して母性本能をかきたてられたというわけでもない。
とにかく、設定が良かった。男の子の優しさと一生懸命さと、涙をにじませつつもそれを照れたように、怒ったような表情でこすって走る、表情といい・・・お母さんの優しい笑顔といい・・・、「初めてのお使い」で頑張る子供を見てじわっとくるのに、ちょっと似た感覚。
私のために家事をする彼氏を見てて感じる楽しさは、それと少し似ている。その「可愛い!」という感動に、恋愛感情も投入しつつ、さらに息子を見つめるお母さん的な愛しさを加味した、一粒で2度も3度も味わえるような・・・なんともおいしい感情なのだ。
「彼氏バックの下着ってどうやってたたむの?」と私のいたいけな男の子が聞く。彼氏バックなんて別にたたまずにまとめて重ねてしまってるだけの私は返答にこまる。彼氏くんは自分のパンツをきちんと両側から折って、くるくるとまとめている・・・私よりよっぽど洗濯物たたみが上手だ・・・。
一秒でも私とたくさん一緒にいたくて、バスルームの鍵を閉めないでいると、彼氏が私をのぞきこみにくる(トイレに一緒に入ってくる私の3歳の甥を思い出す・・・)。
おしゃべりしながら、私は手を洗い、石鹸をいれたガラスのトレーやシンクまわりをさっとふいて、最後に小さなタオルで蛇口の水滴をとってきれいに輝くようにする。彼氏は子供のように好奇心をいっぱいにして私の仕草をながめている。
そのあと何をしたか忘れたけど(多分、彼氏におそわれてカウチかベッドに連れ去られた)、一日が終わるころには、彼氏がバスルームを使ったあとにシンクに決して水滴が残らないことに気がついた。私がやったとおりにきちんとシンクを片付けているのだ。
・・・何度、このことを頼んでも、怒っても、嘆願しても、やってくれない男がたくさんいた。
彼氏は何も言わなくても見ているだけで学んでしまうのだ。
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私のためにいろいろな雑用をやってくれる男の子は、別に彼氏が初めてというわけではない。
親の世代とは違うし、私と同年代の男の子たちだって、「たまには男が料理したり、後片付けをすれば、女の子は感激する」ってことくらいわかっているのだ。そして実際にやってくれることも多い。付き合い始めたばかりのころとか、口説き中のころはとくに。
そういう今までの元彼たちと、彼氏との大きな違い、それは、彼氏が決して見返りやお褒めの言葉を期待していないところだ。
今までのモト彼たちは、お皿を洗えば、「洗ってくれたのね!ありがとう!!」と百万回くらい言わないと、満足しなかった。お料理してくれるとしたら特別な機会、たとえば私のお誕生日に、一切私をキッチンに立たせず、作るのから後片付けまで全部やってくれる、という感じ。これはあくまでも特別な行為なので、私は言葉と態度のかぎりをつくして大喜びし、感謝し、「こんな素敵なことしてくれる彼氏ってなかなかいない!」なんて、彼のプライドも満足させなきゃいけない。
「お誕生日にカレがお料理してくれたの」なんて言ったら、世の中の人々は「素敵ー、ロマンチック、優しい彼でいいな」って反応するかもしれない。 でもよく考えるとこれってすごく不公平だ・・・女の子がお料理するのは当たり前。女の子がお皿をあらって「ありがとう!!やさしい彼女だね」って褒められるなんて話、聞いたことがない。それを彼氏側がたまーにやると、女の子は褒めちぎらなきゃいけないなんて。褒め方、感謝の仕方が足りないと、彼氏側は不満だなんて。
彼氏くんは私が「ありがとう」と言いすぎると不機嫌になる。「どうしてお礼を言うの。俺的にはこれが普通だよ」なんて言う。彼氏だから当然だよ、と。
「お皿洗っておいたよ」なんてわざわざ私に言いにきたりしない。気付くとキッチンがきれいになっているっていう感じだ。私が気付かなくて、お礼を言わなくても全然問題なし。お料理は、特別な日の男の手料理のように凝ったものではなくて、カレーとかシチューとかコロッケとか、ごく普通のものを手早くおいしく作ってくれる、ほんとうに気の利く彼女のようだ。
彼氏が去っていった部屋に一人戻ってきて、さあ片付けよう、と思ったら、とくに片付けるというほどの状態でもないことに気がついた。
いつもの私の部屋が、ちゃんと維持されている。 一人で手を抜いているときよりもよっぽどきれい。 ベッドルームにはいると、彼氏のために追加していた枕が、カバーをはずされ、きちんと折りたたんだコンフォータの上に置かれていた……「1週間お世話になりました」と言いたげに。
・・・私の「二の足を踏んでしまう」原因が、少しずつ攻略されつつあるじゃないの・・・
けなげな男の子、彼氏くんのことをもう少し真剣に考えてもいいかな?と頭をよぎる。
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