元彼と香水の話
2016年9月3日土曜日 キャロライナ・ヘレナ ロード・イッセイ 元彼 香水
元彼の夢を見た。
とても久しぶりだったような気がする。最近しばらく見ていなかった。でもわからない。アメリカに来たばかりのころ、夢日記をつけていたら、元彼の夢は月に1度のペースで見ていることがわかった。夢日記をつけなければ、そんなに頻繁に見ていることには気付かなかったと思う。だから昨日の夢ももしかしたら、久しぶりじゃなかったのかもしれない。
具体的には、元彼を直接見ることはできなくて、元彼と電話で話す、という夢だった。
話の内容はいかにも夢らしく、うまく言葉にできないぼんやりしたものだけど、どちらにしてもその夢の中で、私はもう元彼を恐れていなかった。対等になって、何かアメリカか英語に関する情報を訊ねているという内容だった。
「恐れている」時期はとても長かったのだ。
同じ職場で働いていた頃、オフィスや廊下で彼の姿を見てしまうと、心臓がはねあがったようになって、そのあとしばらく鼓動がゆっくりに戻らなかった。
エレベータで一緒になってひとこと、ふたこと話す機会があったけど、そういうときは手が震えて、自分の机に戻ってキーボードを打とうとしてもしばらくちゃんと打てなかったりもした。
元彼をどうしてそんなに怖がっていたのかなあ、と今は少し不思議に思う。かつて夢中になった相手なんだけど、あまりに夢中になり過ぎて、私は100%彼にコントロールされるようになってしまった。彼の一挙一動が私の生活を地獄にも天国にもした。連絡が途絶えてからは、彼の姿を見るだけで地獄につきおとされるようで、恐かったのだ。
昨日、彼氏のためにいろいろな買い物をしていて、キャロライイナ・ヘレラの香水を見かけたのだ。元彼の夢を見たのはきっとそのせいだと思う。その香水の瓶を手にとって眺めたわけでもないし、元彼を思い出してしみじみ考えたわけでもなくて、他の香水と一緒に、ふと視界をかすめただけだ。それなのに、きっと潜在意識の中ではいろいろな思いが掘り返されたのかも。
匂いは、人の記憶にもっとも強く結びつくっていうし。
断片的な光景が蘇る。
ロンドンを一緒に歩いていた。通りすがりに誰かが声をかけてきた。その男はまず私の顔をじっとみて、それから元彼に何か話しかけた。元彼は相手にせず歩き続ける。なんて言ったの?と聞くと、「You are lucky guy to have such a spicy girl、きれいな彼女がいてラッキーだね」と説明してくれる。
私は嬉しくて、「うそだー」と本当に信じていないような口調で言う。本当だってわかっていたけど、もう一度元彼にその言葉を繰り返してほしい。その男のコメントに対して元彼がどう思うのか教えてほしい。「彼女」だと思われた、そのことが私はたまらなく嬉しくて、元彼の反応が知りたい。
元彼はつまらなそうな表情で「ほんとだよ」と言ったきり、だまって歩き続けた。それから店先に置いてある雑誌に興味を示してたちどまる。
私を見ない元彼の視線に、私は信じられないくらい傷つく。「うそだあ」と言った私が、本当はわかっているのに、話題を長引かせようとしていた、それを元彼に見通されていることにきがつく。そういう媚びた態度を受け入れようとしない元彼の冷たさを私は思い出す。
あんなに冷たい、私に無関心な相手と、どうして無理して一緒にいたんだろうと今では思う。
プライドも何もなかったのか、と過去の自分に怒鳴りつけたい。
でも、同時にこうも思う・・・今、あの瞬間に戻ったら、私はきっと3秒で元彼にまた恋してしまう。その恋はプライドなんかよりずっと強い。彼といるためなら、たとえ冷たくされても、早足で歩く彼に必死でついていこうとするだろう。
また別のときのこと。
東京のベイエリアにある新しいホテルに宿泊した。私が先にチェックインして待っている予定だった。
元彼は約束の時間を過ぎても来なかった。しばらくして電話があって、空港にいる、ハワイにいくいとこを送って来たんだけど、飛行機が遅れてるから、もう少し待ってて、と説明された。
「いとこ」は、元彼が他の女と(というか、本命彼女と。私のほうが”他の女”だ)いるときに必ず登場する架空の人物だった。いとことテニス、いとことキャンプ、いとこと旅行。それは全部、彼女とデートしているという意味で、そのことを私も元彼も、もうわかっていながら、暗号のように使われる言葉だった。
あー、どうりで、と私は思った。その週末は3連休だった。元彼の彼女は女友達とハワイへ、元彼は仕事があってこちらに残るから、その間に私に会う予定をいれていたのだ。
自分の立場はよくわかっていたけど、そうまで具体的にわかってしまうとさすがに私は気が滅入った。
電話を切ったあと、おそらくあと1時間以上は来ない元彼を待つ間を部屋で過ごすのが嫌で、高層階の客室専用のラウンジに出かけた。
ワインを飲みながら湾岸の景色をぼんやりと眺める。
この部屋をとったのは私、支払うのも私。元彼は自分の都合のいい日にちを指定して、私がとったホテルに一泊していくだけ。
こんなにバランスの偏った関係になぜ、私は甘んじていられるのか。元彼を待ちながら考えている間に、どうしようもなく自分が惨めになった。
翌朝、私がチェックアウトするまえに元彼は一人で帰っていった。車で来ているのに、私を送る気はなく、私も送ってもらう期待などしていなかった。
それでも別れ際にもう少し優しい態度を見せてほしくて、私は離れていく元彼を呼び止めた。ねえ、お別れのキスをして。数時間前まで抱き合っていた相手に、挨拶のキスをお願いしてもおかしくはないような気がした。けれど、愛情のない関係と、愛情のこもったお別れのキスとは、本当は対極といっていいほど異なるものだ・・・ただそのときの私に、そのことを認めるのはつらすぎた。
元彼は心から面倒だという顔で私を見た。それから顔をしかめて、「やだよ」と言った。私はとっさに元彼の手をとった。そんな表情のまま離れていってほしくなかった。その手を元彼は強くふりはらった。必要以上に強く。そしてそのまま、後ろも見ずに歩いていった。
私はしばらくそこに立っていた。元彼の後ろ姿が見えなくなっても、傷ついて打ちのめされた気持ちの重苦しさに耐えて、なんとかバランスをとって歩けるようになるまでじっとしていた。
それからチェックアウトして、お台場にできたばかりの新しくて、とても高価なホテルの宿泊代を支払った。そこから歩いて、少し離れたモノレールの駅まで歩かなくてはならないのだった。
人工的につくられた新しい道を歩きながら、ときどき通り過ぎていく車を目で追った。惨めな心を抱えながらも、まだ元彼を探しているのだった。しかし元彼がそこを通ったからといって何だというのだろう。車を止めて私を乗せてくれるわけでもなくて・・・会えば、会うだけ、傷つくのに。
駅につくまえに私は元彼に電話をかけた。元彼の自宅に。いないとわかっていて、留守番電話にメッセージをいれることにしたのだ。直接話をする勇気はなかった。
「もうこれ以上会っていてもしかたがないと思う。これで終わりにします。もう会いません」
そんなような内容だったけど、考えたようには毅然とは言えず、涙に濡れて、やはり惨めな話し方になってしまった。声が震えてしまって恥ずかしかった。
あれは何度目に私から告げて元彼と別れたときのことだったんだろう。あまりにも何度も決意しては、それを数カ月後に翻していたので、もういつのことかもわからなくなってしまった。
季節は春だったような気がする。お台場に吹くわずかに潮を含んだ風がとても暖かくて、泣きながら歩く私の心模様とあまりに隔たっているのが不思議で、寂しくて、空しかったのを覚えているから。
キャロライナ・ヘレラの香りがすると、今でも元彼への気持ちを鮮やかに思い出す。苦しいほど恋いこがれていた相手なのに、香りがかきたてる記憶はどちらかというと不安と恐れだ。
こんなに失うことを恐れる何かを、常に失ってしまうのではないかという恐怖と隣り合わせに過ごしていく日々。たかが恋愛なのに、その恋愛で傷つュことしかなかった毎日が、その他の私の生活のすべてを支配した。あの頃は、仕事も友人も家族も、私は元彼とのことにとらわれて顧みることがなかった。
そんな重い、重い心を抱えた日々が蘇る。キャロライナ・ヘレラのボトルをあけるたびに。
私が昨日買った香水はロードイッセイだ。
とくにお気に入りの定番というわけではなくて、彼氏と会うようになったころ、たまたまつけていた香水。彼氏はその香りにとりつかれたように好きになってしまったのだけど、それも思い出と結びついたからなのかもしれない。
その香りがあまりに気にいった彼氏はロード・イッセイを日本に持って帰ってしまい、かわりに「香りだけでも一緒にいられるように」と自分のブルガリを私に置いていった。だから、彼氏が来る前に新しいボトルを買っておく必要があった。
それに、シャワージェルも、ボディクリームもロード・イッセイのラインでそろえたら、夜寝るときもこの香りでいられる・・・そう思ったのでラインでそろえることにした。
それで、デパートのパフューム・セクションへ買い物にでかけたのだけど。
ほんの一瞬目をかすめたキャロライナ・ヘレラのせいで、その夜に見るのは彼氏ではなくて元彼の夢なんだな・・・、と、自分の心理を不思議な気持ちで考える。
幸せな現在の恋より、あんなに自分を傷つけた10年前の恋のほうが、心の奥深くにささったままどこへもいかずに残っているのだろうか。
彼氏に久しぶりに会えるまで、もう少し……
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