結婚できない女には自由がある!
私は安井かずみさんの本が好きで20代のころよく読んでいた。私の憧れの女性たちがさらに「憧れの女性」として名前を挙げるという、伝説の素敵な女性。辺見まり(えみりのお母さん)のヒット曲の作詞をした人だから、本当にふたつ前の時代の人だ。でも本に書いている内容とか出てくる名詞は今読んでも洗練されていてかっこよくて、タダものじゃないという雰囲気が伝わってきて興味がつきない。
彼女の書いたエッセイで一番印象に残ったのは、薬物所持の疑いでいきなり警察が彼女の自宅に踏み込んできた朝のことを書いたもの。
彼女が朝、「デートに着ていくワンピースはどれにしようかしら」と選んでいるときに警察がやってくる。
実際にその疑いが根拠のあるものだったのか、その後疑いが晴れてどうなったのか、状況そのものについての詳細説明は省かれている。とにかく、その日の朝、彼女は取り調べのために一晩身柄を拘束されてしまう。
翌朝、朝食が支給されるのだが彼女はその食事内容が気にいらず食べることを拒否する。
当時ほかの誰も知らなかったような洗練された美意識を守って暮らしていた彼女にとって、食べることが屈辱であるような状況と食事だったらしいのだ。
そしてどうしても食べようとしない彼女に困り果てた警察側が「それなら食べたいものを持ってくる、何なら食べられるのか」と聞くと、彼女は毅然として「メロンとクロワッサン」と答える。
このあとか前か忘れたのだけど、身柄を拘束されて街中を車で連行されるとき、彼女は厳重な格子がはまった窓越しに街の様子を見る。
週末が始まったばかりで、いいお天気で、人々がのんびり歩いている。みんな、とくに何をするわけでもないけど、ただそのへんをぶらぶら歩いている。
このとき彼女は、「ただその辺を歩く」という自由の素晴らしさに衝撃を受ける。ただ自由に歩くということ。どこに行こうと自由であること。それがそのときの彼女にはたとえようもなく羨ましく、遠く憧れるもののように感じられる・・・鉄の格子の内側から見ると。
私はこの話を、何の予定もない週末に近所のコンビニにでかけるときなど、ときどき思い出すようにしていた。
うまくいかない恋愛に落ち込んで自分を不幸のどん底のように感じていた日々、お化粧もしないでパジャマ同然の格好で角のコンビニまで歩くとき、なんてつまらない暮らしをしてるんだろうという気分になってしまうのだけど、そんなとき思い浮かべるようにしていたのだ。
「ただそこらへんを歩くことの素晴らしさ、自由の美しさ」
なぜ今このことをここに書いているかというと、警察に身柄を拘束されるという極端な出来事でなくても、何かがきっかけで物事に対する視点ががらりと変わることはある。
私の場合、婚約がそうだった。
人は今自分が持っているものの素晴らしさをつい忘れて、手に入らないものの良い面ばかりを見て憧れてしまう傾向がある。と、えらそうに誰かを諭したいのではなくて、私は自分自身のことを書いているのだ。
一人の週末を「寂しい」と感じるか「自由だ」と楽しむことができるか。それは本当に本人の視点次第なのだけど、元婚約者と婚約する前の私は一人の寂しさにとらわれて押しつぶされそうになっていた。求められないということはひとつの拒絶に思えて、自分にそれだけの価値がないとまで感じてしまい、極端に悲観的な考えに凝り固まっていた。
ところが婚約したら今度は急に、失った自由が懐かしくて取り戻したくてたまらなくなった。彼氏に出会って恋に落ちてしまったとたんに。
シングルであるということは、明日にでも劇的な出会いをするという可能性があること。出会いがあったら自由に飛び込んでいける権利があるということ。
婚約していた私は、感情にまかせて彼氏に飛び込んでいけない自分の立場を嘆き、シングルの友達をとても羨ましく思った。以前はあれほど寂しいと思ったこと・・・一人きりの夜、元婚約者からの電話もなく(彼は毎日電話する人ではなかった)、「今、私がどこへ行こうと何をしようとかまう人はいないんだ」という思いつきを孤独感につなげていったこと・・・今度はそれがどんなに素敵なことに思えたか。「どこへ行っても何をしてもいい」、その自由が今あったら私はすぐに彼氏をたずねて彼の腕に飛び込むのに。
1度目の婚約もその点ではよく似ていた。
結婚そのものがいやなわけではない。ただ婚約するたびに突然惜しくなってしまうシングルの生活の可能性・・・「ほかの誰かに出会って恋をして結婚する」その丸ごとワンセットを、もう一度最初からやりなおしたくてたまらなくなってしまう。婚約相手ではなくて他の人と。
そういうときはやたらとシングルの生活がうらやましくて素敵なものに思えるので、もう20代後半だから遅いとか、30過ぎてるんだから無理だとかいう考えはまったく浮かばないのだ。「今シングルに戻ればきっと私にも出会いがある」と、やたらポジティブになっている。
そして今回もついにシングル生活に戻ってきて、私は「負け犬万歳!」と叫びたい気分だ。だって本当に負け犬生活は楽しいもの。可能性に満ちた毎日。明日にでも何かが起こるかもしれない毎日。何かが起こったら自由にそれに向かっていくことが許されている身分。
それからなんといっても年下の男の子との恋愛がじっくり楽しめること!これは30代負け犬の特権と言って良い。
30代独身なら、10歳年下の男の子とつきあっても不倫にならない。もしかしたら10歳年下の旦那様を持つことになるかもしれないけど、それも30代の結婚だからこそ可能なことなのだ。(20代でも可能だけど、相手が10代になっちゃうからね!いろいろと難しい。)
そして10歳差の恋愛を楽しむのに、20代と30代という組み合わせは絶妙にして最高。20代で結婚していたらこの最高の組み合わせを存分に楽しむという経験をせず人生をまっとうするところだった。
まあそういうわけで20代で結婚しない方が良いと言うわけではないけど、私の場合は結果的に結婚しなかったんだから、そうポジティブに考えるようにしようと思うのだ。
そうそう、最後に、別に警察に連行されて鉄格子の中に入らなくても、あるいは婚約してそれを解消するというエネルギーを消費する作業を経なくても、「負け犬は寂しい」→「負け犬は自由で楽しい」というパラダイム・シフトを疑似体験できる方法をひとつ提案しておこう。
それは、既婚だけど全然幸せじゃない人たちのブログを読むことだ。とくに「姑との諍い」をテーマにしている掲示板などが有効。
私は先日偶然そういう掲示板を発見して思わず読みいってしまったのだが、当事者の方たちはみんな真剣に悩んでいるのだから、ここにそのURLを出すような無神経なことはしない。でもネットという場所に公開している以上こっそりROMするのは自由!みんなそれぞれ大変なんだなあ、という思いは厳粛に受け止めつつ、自分が今現在手にしているものの素晴らしさを再発見するための刺激剤とさせていただく。
きっと負け犬なら思うはずだ。まだ可能性が残っているということはなんて素晴らしいのだろう!と。結婚しないことが敗北だなんてとんでもない。敗北は、あきらめて結婚してしまうことだ、と1度目の婚約のときに私は泣きながら思い知った。
もちろん、おだやかな幸せに満ちた結婚生活だって世の中にはたくさん存在するわけで、私だってそれをとてもうらやましいとは思う。結婚より負け犬生活のほうが楽しいよ、と単純に比べて言っているのではない。私がめざしているのは、どうせ負け犬生活なら楽しい部分を思いきり楽しむということ。
誰にも文句を言われることなく、お行儀悪くキッチンで出来たものから食べたり(ぜいたくな材料ばかり使ってるからおいしい)、日曜の昼過ぎミモザを片手にカウチに寝そべって小説を読んだり(酔った頭でラブシーンを読むと楽しい)、好き放題に暮らすことのひとつひとつを楽しむ。そして日常生活をほっぽりだして恋にうつつをぬかす。
家庭があったら、できない。家庭を持ったらできなくなる。だから、家庭を持つまではこれを思いきり楽しむ。
そのほうが「結婚できない・・・」と鬱々して過ごすよりずうっと楽しくて、結果的には(今度こそ)解消しないですむ結婚につながっていくのではと、私は考えているのだ。希望的観測だけど、希望的観測ってとても大事。
安井かずみがいた時代>
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